中里介山「大菩薩峠」――明滅するユートピア


4/3(土)~6/12(土)開催

 

 

 

 

 

 

 

 

開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
観 覧 料 一般300円
中学生・高校生100円
休 館 日 日曜日、5/3を除く月曜日、5/6(木)、第4木曜日
編集委員 紅野謙介(日本大学教授)

 

本展について

中里介山の「大菩薩峠」は、日本の近代文学のなかでもたいへん特異な、不思議な位置を占める大長編です。1913(大正2)年から始まって、1941(昭和16)年まで28年間も書きつがれ、しかも未完に終わりました。理由のない不条理な殺人から始まって、江戸末期、盲目の侍・机龍之助を中心に夥しい数の人物たちを登場させ、終わりのない物語がくりひろげられます。泉鏡花や谷崎潤一郎らが高く評価し、1920年代半ばにはベストセラーになって演劇や映画にも取り上げられています。大衆文学の起源に祭り上げられたこともありますが、作者はこれを否定しました。しかも、介山は終生、文壇とは距離を置いたのです。この小説は、死の匂いのたちこめる幽鬼のような存在を一方にすえ、ユートピアの建設と崩壊がくりかえし書き込まれています。日本近代文学館には、開館当初より「中里介山文庫」を初めとする多くの資料が収蔵されています。災厄と混乱のつづく21世紀にあらためて「大菩薩峠」を読み返したらどうなるのか、みなさんとともにその文学の可能性について考えてみたいと思います。

(編集委員 紅野謙介)

 

●部門構成

第1部 一介の愚人――中里介山の出発

介山こと中里弥之助は、1885(明治18)年、神奈川県(のち東京府に編入)西多摩郡羽村に生まれました。21歳の時「都新聞」に入社し、1913年9月には「大菩薩峠」の連載が始まりますが、その直前に介山はすべての経典を読破しようとしています。1969年に介山実弟・幸作氏から当館に寄贈された介山の蔵書に残された「大般若波羅蜜多経」には、見返し裏に日付と「一介の愚人」という書き込みが連続して見られます。これを傍らに置きながら、「大菩薩峠」は書き進められたのです。

第2部 「大菩薩峠」の世界

「大菩薩峠」は、「都新聞」から「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」へ、そして雑誌「隣人之友」や「国民新聞」「読売新聞」、書き下ろしへと発表の場は変化していきました。原稿は膨大な枚数にのぼり、巻ごとにまとめて綴じられたものが何冊ものこっています。朱入れの訂正が入っているものもあり、その一部を紹介します。

第3部 さまざまな『大菩薩峠』

『大菩薩峠』の最初の版は和装私家版でした。活字道楽で紙の購入から200~300頁分の文選、植字、校正、印刷、解版、口絵の依頼など自ら行い300部印刷し、「都新聞」に小さな広告を出して売り出したといいます。新聞連載が次第に評判を呼び、何度となく版を変え、出版社を変え『大菩薩峠』は刊行され続けました。

 

 

第4部 「中里介山文庫」と西隣村塾

「中里介山文庫」のなかの蔵書は文学以外にも地誌、名所図会、史書、経典、漢籍、風俗、医学、武術、音楽など、多岐にわたっています。それらの多くは介山の私塾であった西隣村塾の図書として共有されました。介山は地元の子弟を集めて農業と教育に従事する共同体を作ろうとしたのです。塾生だった小山清が記した思い出「西隣塾記」(「文学界」1947年11月)とともに、「西隣村塾」の看板や蔵書の一部を展示します。

第5部 「大菩薩峠」の影響圏

「大菩薩峠」の成功は、その後の文学にも大きな影響を残しました。作家達が「大衆文芸」という旗印を掲げるようになり、その理想の起源として指差したのが「大菩薩峠」でしたが、介山自身は「大衆小説」という呼び方を嫌い、彼らとは与しませんでした。『大菩薩峠』(普及版一巻 春秋社 1927年11月)に介山は「緒言」をつけ、全編の目的を説き、改めて「大乗小説」として書き直すのだと宣言しています。

第6部 画家たちの協力と確執

様々な画家たちが「大菩薩峠」の口絵や挿絵を提供し、石井鶴三は「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載された「大菩薩峠」六巻分の挿絵を担当しました。石井がその挿絵集を単独刊行しようとした時、介山は、挿絵は小説に従属するものであるとし、著作権の侵害にあたると訴えます。この争いは介山の敗北に終わりますが、小説と挿絵の関係を見直すきっかけとなりました。

第7部 演劇・映画への翻案

介山は「大菩薩峠」の演劇化・映画化においても騒ぎを起こし、原作を損なうような演出は許さないという考えでした。1921年の新国劇をはじめ、本郷座や帝国劇場、歌舞伎座で上演される時も、稲垣浩監督の日活映画にも介入し、現場を困らせました。『日本映画粛正論 中里介山講演』(隣人之友社 1938年12月)ではその不満とするところを明らかにしています。

第8部 受容と評価の系譜

「大菩薩峠」は発表直後から現在に至るまで多数の人々に評価されてきました。谷崎潤一郎、宮沢賢治、島尾敏雄、堀田善衞、桑原武夫、橋本峰雄、多田道太郎、鹿野政直、安岡章太郎、夢枕獏、鈴木敏夫など、この作品に対する強い思いや評価、「大菩薩峠」をもとにした新たな作品なども紹介します。

 

◆刊行物

中里介山文庫目録―附・「中里介山「大菩薩峠」明滅するユートピア」資料集

中里介山文庫目録(224頁)+展覧会資料集(16頁)

 

 

 

 

 

 

 

B5判、240頁、税込2200円
館内受付、WebShopにて発売中

 

同時開催 川端康成と「文藝時代」の人びと

 

大正13年10月、25歳、東大を卒業したばかりの川端康成は、横光利一、片岡鉄兵らと同人雑誌「文芸時代」を創刊しました。 「新しき生活と新しき文芸」と題した創刊の辞の中で川端は「 『宗教時代より文芸時代』 へ」とその意欲を述べています。 彼ら同人は「新感覚派」と称され、その活動は執筆にとどまらず、新感覚派映画連盟の設立、「狂つた一頁」制作へも派生していきました。
川端を含め19名の同人たちの交流、そして「文芸時代」に発表された初期の名作「伊豆の踊子」についてご紹介します。

 

*併設の川端康成記念室にて開催。特別展の観覧料(300円)で同時にご覧いただけます。